フットボールカルチャー > フットボールの歴史 > オーストラリアにおけるフットボール
FA(イングランドサッカー協会)が1863年にフットボールのルールを制定する4年前に、オーストラリアでは独自のフットボール(オーストラリアン・フットボール)が生まれていた。オーストラリアにおける*アソシエーション・フットボール(FAルールに基づいたフットボール)は、1880年代にメルボルンを中心に広がり始めたが、本当に定着したのは第二次世界大戦後のことだ。デイヴィッド・ゴールドブラットによるレポート。
フットボールは、イングランドでルールが確立する以前にオーストラリアに伝えられた。英国からの移民、植民地開拓者、囚人らによって、英国流しきたり、階級システム、文化などと共に、村や都市単位のチームが道路などで行っていた乱暴で危険なフットボールとパブリックスクール式フットボールの伝統が、オーストラリアに持ち込まれた。しかし、発祥地から約1万9,000キロ(1万2,000マイル)離れ、定期的に情報が入ってくることもない土地で、英国式のフットボールは独自の方向へ進化を遂げた。ちょうど、世界のほかの地域から隔離されたオーストラリアで進化した、独特な植物や動物のようだった。
独自のフットボールの誕生 英国からの移住者社会が形成されていたオーストラリアで、イングランドのフットボールが取り入れられるのではなく、独自の競技が考え出された理由のひとつは、正式なルールが確立されるより先に、フットボールがオーストラリアに伝わったからである。1850年初頭には、イングランドのパブリック・スクール卒業生が学生時代に採用していたルールに基づいて、メルボルンで大人数による試合が行われた。人気は高まり、その結果1859年に最初のメルボルン・ルールが制定された。それは、1863年にロンドンでFAがルールを制定する4年前のことだった。
メルボルン・ルールでは、手を使ってボールを飛ばすハンドボールやキャッチが許されたため、驚くべきスピード感と流動感が生まれた。1860年代半ばまでには、大勢の人々がメルボルンのクリケット競技場や広場に集まり、フットボールを観戦するようになった。1865年7月29日の『ベルズ・ライフ』誌(オーストラリアのスポーツ誌)の記事は、競技中のボールの動きを次のように描写した。
「後ろへ前へ、こちらのサイドからあちらのサイドへ、そして場外へ。人ごみを抜け、再びフェンス脇の溝へ入ったと思ったら、今度はデニスじいさんのキャベツ畑へ。それから、再びユーカリの枝めがけてけり込まれ、ついにメルボルンのゴールに迫り、観客をハラハラさせている。そうこうしているうちに2時間以上が経ち、間近で観戦していた人でさえどちらのチームが勝っているのかわからなかった」
オーストラリアン・フットボールは1860年後半までに、急速に発展していたメルボルンに定着し、その郊外各地にクラブが形成された。イングランドにおけるアソシエーション・フットボールと同様、観衆はますます大規模になり、アマチュアレベルではフットボール人気に対応できなくなった。まもなく、フェンスや回転式入場口が設置されて入場料が徴集され、選手への報酬が支払われるようになった。さらに1880年代には、メルボルンでプロ・リーグが発足し、ビクトリア州のほかの地域や南オーストラリアでも新しいチームが作られていった。
アソシエーション・フットボールの到来 アソシエーション・フットボールは、1870年代になってやっとオーストラリアに到来した。それは、シドニー郊外の産業地域、およびニューサウスウェールズやクイーンズランドの町へ押し寄せた、英国からの新たな移民によって持ち込まれた。しかしこれらの地域でさえ、アソシエーション・フットボールの人気は定着しなかった。20世紀に入るころには、ラグビー・ユニオン(15人制)やラグビー・リーグ(13人制)のほうが人気となり、オーストラリアのどの州においても、アソシエーション・フットボールは第2、第3のスポーツでしかなかった。
1900年、それまで自治権を持っていた州(ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランドなど)は、その権限の多くをオーストラリア中央連邦政府に移譲した。この建国の重大な瞬間に、スポーツ関係当局は、“ひとつの旗、ひとつの運命、ひとつのフットボール”という意志表明を行った。つまり、フットボールといえば、オーストラリアン・フットボールのことで、オーストラリア製のボールのみを使い、プレーが行われる各スタジアムには、オーストラリア国旗が掲げられるべきだというわけだ。
1884年に協会が設立され、地元リーグが発足し、州対抗試合も行われるようになったものの、アソシエーション・フットボールは大規模に統合されることがなくアマチュアのままだった。そしてこのレベルにおいてさえも、第一次世界大戦から第二次世界大戦後にかけて、ギリシャ、クロアチアやほかのヨーロッパの国々からの新たな移民が流入するまで、アソシエーション・フットボールの復興は起こらなかった。復興といっても、それはアソシエーション・フットボールの少数派スポーツとしての地位が強調された程度のものだったのだが。
文:デイヴィッド・ゴールドブラット
*いわゆるサッカーのこと。英国をはじめとする多くの国で、フットボールと呼ばれている。
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