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1912年、イタリアのクラブ、ジェノア(Genoa)は、経験の少ないイングランド出身のウィリー・ガーバット(Willy Garbutt)を監督として指名した。当時クラブは、その後彼がチームへもたらす成功など予測もしていなかった。40年の間に、ガーバットがイタリアのフットボール指導にどのような影響を与えたか、そして彼はなぜ今もジェノアのヒーローなのか、ダン・ブレナンが説明する。
最近イングランドでは、イタリア人の監督を迎えるのが流行だが、その反対が流行だった時代があった。20世紀への変わり目、ちょうどイタリアでフットボールの人気が高まりつつあったころ、イングランド出身のある普通のフットボールプレーヤーが、イタリアのフットボール界へもっとも大きな影響を与えた監督のひとりとなった。
彼の名前はウィリー・ガーバット。ジェノア、ローマ(Roma)、ナポリ(Napoli)、そしてACミラン(AC Milan)の監督として、イタリアで40年を過ごす以前は、レディング(Reading)、ブラックバーン(Blackburn)、アーセナル(Arsenal)でプレーをしていたが、特に目立った選手ではなかった。
イングランド出身の若き監督 ガーバットが監督を務めた最初のクラブであるジェノアは、イタリアのフットボール界のなかでも先駆的存在だった。英国人によって設立され、1912年にはすでに8名の英国人選手が所属していた。そして、その同年の1912年にガーバットが監督として任命されたことによって、ジェノアの歴史は決定的な時代を迎えることになった。
29才という若いガーバットに、監督経験はなかった。イタリア代表監督を務めていたヴィットーリオ・ポッツォ(Vittorio Pozzo)が彼を推薦したという人もいた。また、ジェノア・ユースの監督をしていたアイルランド人トーマス・コギンズ(Thomas Coggins)が介入したという人もいた。事実がどうであれ、ガーバット任命は正しい選択だった。
ガーバット監督はすばやく新たなトレーニング体制を導入し、戦術と体力作りに焦点を置いた。どんな細かい点も管理するようになり、ジェノアの選手控え室に温水シャワーを設置することさえも主張した。これは、当時のイタリアでは前代未聞の話だった。イタリアで最初に売買による移籍を成立させたのも、ガーバットである。近隣のチーム、アンドレア・ドリア(Andrea Doria)にいた2名の選手、およびミランから1名の選手と契約をした。さらにイングランドにコネがあったおかげで、イタリアのチームとして初めて、ジェノアの海外ツアーを計画し、ガーバットの古巣であるレディングと試合させた。
イングランドではフットボールプレーヤーも監督も生活費を稼ぐのに苦しんでいた時代であり、ガーバットはそんな祖国へ戻ることを願わなかった。戦争によって4年間監督業を離れた後の 1918年に、イタリアのジャーナリストにこう語った。
「フットボールを教えに海外にいかなければいけないなんて驚くべきことです。イングランドでは、お金を払ってプロの監督を雇おうなんて人は、誰もいないのです」
ジェノアの1923年と1924年のチャンピオンシップでの優勝は、ガーバットの指導力の功績とされ、イタリア代表監督のポッツオは、1924年のパリオリンピックへ向けたチームの準備をサポートする役に、ガーバットを任命した。ガーバットの元でかつてプレーしたことのあるデ・ヴェッキ(De Vecchi)によると、ガーバットは典型的な古いイギリス紳士だったが、グラウンドでプレーヤーたちと一緒に動き回ることを最も幸福に思っていた。
ガーバットのジェノアにおける成功は、イタリアのほかのクラブの目もイングランドへ向けさせた。1921年、インテル・ミラノ(Inter Milan)はロバート・スポッティスウッド(Robert Spottiswood)を監督に任命し、元マンチェスター・ユナイテッド(Manchester United)のベテラン、ハーバート・バージェス(Herbert Burgess)はパドゥア(Padua)の、そして後にACミランの監督となった。
ジェノアだけに留まらなかったガーバットの活躍 ジェノアでの15年のあと、1927年、ガーバットはセリエAに昇格したばかりのローマで、初のプロ監督となった。そして早くも2年後に、今度はナポリへと移籍した。このナポリもまた、イングランド出身者であるウィリアム・ポスによって設立されたクラブだった。ガーバットは、ナポリをセリエA3位の座へ2度導いた。それはチームにとって過去最高の順位であり、1960年代になるまで再び達成することもなかった。
ガーバットは、ACミランとスペインのアスレティック・ビルバオ(Athletic Bilbao)での短い任期のあと、1937年に彼が愛したジェノアに11シーズンの契約で戻り、40代の後半になってやっと、イングランドに戻った。そして1964年、81才でこの世を去った。イタリアでは、‘イングリッシュ・ミスター’ガーバットの記憶が、歴史に残されている。
文:ダン・ブレナン
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